自分の事

自分の事をお伝えするにあたって、小さい頃の事から書いた方が伝えやすいかなと思いましたので、小さい頃の事から書いていこうと思います。

文章が長くなってしまいますが、よろしければ読んでいただけると幸いです。



僕は小学生の頃から、多人数で遊ぶのが苦手で、友達とは1対1で遊ぶ事が多かった(発達障害の影響でコミュニケーションが苦手で、また多人数になると人に気を遣う部分も増えてしまうので苦手なのかなと思います)。

1対1で遊ぶ友達はたまに変わったりしていたけど、1対1で遊ぶ友達が2人くらい(その時による)いました。でもそのいつも遊ぶ特定の友達がみんな僕が小学生の時に転校してしまいました。

いつも遊ぶ特定の友達とは仲が良かったけれど、友達の幅が狭かったので、その仲が良かった友達達が転校してからは、人とうまく馴染めなくなり、いじめられたりもした。

中学生の時も人とうまくコミュニケーションが取れず、また同性愛者で女の子っぽい面もあったりした事でからかわれたり、人とうまく馴染めない事から、いじめに遭ったりもした。

高校からは生まれ変われたらという気持ちから、近所だけども同じ中学の人があまり選んでいない高校を選んだ。

高校は、1年のはじめの方はうまくいっていたんだけど、同じ中学出身の人が僕の事をゲイだと友達に伝えたりして、僕は気にしてしまい、そこから友達関係がうまくいかなくなっていった。

1年の時のクラスに人をいじめたりするのが好きな人がいて、その人(Aとする)がAと同じ中学出身の人(Bとする)をいじめていて、Bは孤立していたので、僕はBの話相手になっていたりした。

また、ある時からCという人が僕と仲良くしてくれたが、Cは僕にお金を貸して欲しいとしつこく言ってきた。

僕はその時バイトをしていたので少しはお金があった。Cがしつこくお金を貸して欲しいと家の近くまで来たため、2・3回お金を貸した。

ある日僕がCの腕時計を壊したとCが言ってきて、時計の修理費用として貸したお金をチャラにすると主張してきた。僕はその腕時計が壊れた状態なのを確認していなく、C曰く腕時計は壊れて修理に出したとの事。

そんな言いがかりをつけてきたので、僕はCの家にお金を取り戻しに行った(今考えるとお金を貸す自分も考えが甘いなと思います…)

そしたら、Cは外出中で、Cの親に事情を話してお金を返してもらった。

Cはいじめっ子のAと仲が良く、Cを敵に回せばAも敵に回す事になるという事は分かっていたんだけど、僕は曲がった事が嫌いで、もしAが僕をいじめてきたら学校を辞める覚悟でいた(振り返ると、高校生になって生まれ変わろうと思っていたものの、上手くいかず自暴自棄っぽくなっていた面もあったのかもしれません…)

翌日、案の定Aが色々言ってきて、僕はいじめの対象となった。

数日後、僕は母に学校を辞めたいと訴えた。でも、母は認めてくれなかった。

僕の通っていた高校は特殊なクラス編成で、1年の時は商業科と工業科が同じクラスで、2年からは商業科と工業科が別々のクラス編成となる。

僕は商業科で、いじめる方の多数は工業科の人だった。

だから母はこの一年我慢してと言うから、悩んだ末学校に行く決意をした。

Aからすると、一人のいじめの対象を集団でいじめたい気持ちがあるらしく、AがいじめていたBをいじめる側に取り込もうとした。Bは僕を裏切りいじめる側に回った。

僕が一番左側の一番前の席だった事があって、殆んどの男子は右側の後ろでご飯を食べるという事があった。その当時はそれが辛かった…

でも、僕は今後も高校に通うという選択をしたから、いじめられっ子のままでは駄目だと思った。

同じ学年の他のクラスに同じ中学出身の人がいて、その人が商業科なので、2年になった時に高確率で同じクラスになるから、僕がいじめられているのを見られては、もし2年の時に一緒のクラスになった場合、距離を置かれてしまう可能性があったから、その当時の自分なりに色々考えた。

昼食の時間になり、5分で弁当を食べ終えて机にうつぶせになり、同じ中学出身の人に気付かれないようにしたり、通学前に雑誌を買ってきて、休み時間中に雑誌を読んで間をもたせたりなどして自分なりに工夫をした。

それと、同じクラスの商業科の人対策(2年の時に同じクラスになる可能性がある人もいるため)として、いじめる側の人が何かしてきたら、反抗したりもした。

ただ黙っていじめられていては、2年の時に同じクラスになっても仲良くしてもらえない可能性が高いと思ったから…

以上のような努力もあり、2年では友達関係で苦労する事もありながら、仲の良い人が1人出来た事もあり、何とか2年生を終える事が出来た。

でも3年の時、先程書いた仲の良い人とは別のクラスになり、友達のような人はいたけれど、僕とは全然合わない人ばかりで、その友達達に合わせようとするのが物凄く辛かった…

朝教室に入る時「このクラスで一日またやっていかないといけないのか」と、いつも朝から憂鬱だった。学校から帰っても気疲れで毎日寝てしまう状態…

それに耐えきれず、一学期を終えた所で高校を辞める選択をした(人に合わせようと無理をした結果、疲弊して破綻してしまった)。

高校は辞めたものの、なりたい職業があり、なりたい職業に就くためには、大学に行かないとなれないため、大検(現在の高等学校卒業程度認定試験)を取ろうと決意する。

その後大検を取るも、父がお金を貯めたりという事が出来ない性質な事と、お金の管理が出来ないのに自営業を始めてしまい、当然の結果なのですが、自営業は上手くいかずに借金を積み重ねる事になってしまい、また僕の方も精神的に病んでいたりなどの理由から家に引きこもりがちになっていて、バイトなどで学費を捻出する事が難しく、奨学金などの制度の知識もなかったため、大学進学は断念する事となった。

父は僕が小さい頃から手元に少しお金があると気前がよくなり浪費をしたり、高い車をローンを組んで購入したり、お金がなくなって来ても借金をしてまで高価な食材を買ったりなど浪費を繰り返した。

また手元に少しお金があると気を良くして、家族にお金をばらまいたりもしていた。

子供の将来のためや自分達の将来のために貯蓄するという考えは全くなく、サラ金などで借りられる枠を自分の貯金のように使って、何か高額なものを買う時でも分割で払うからいいやみたいな感覚でローンなどを積み重ねていた。

また、僕が小さい頃からのお年玉などの臨時収入を銀行に預けていた30万くらいのお金も、家の生活費がないため、母におろされてしまう状況。

ある日父が電信柱などに貼られている看板にある「お金を貸します」のような所からお金を借りていて、5万円借りて2週間で利息が5千円もつくらしく、本当はこれ以上父にお金を貸したくはないけれど、僕もすぐに家を出られる状況ではないし、家計が回らなくなると一緒に住んでいる自分にも影響が出てしまう事や、またそういう所からお金を借りている状況だと家計が破綻してしまうので、お金を貸して返済に充てさせる事に…

しかもその返済のために渡したお金を返済していない事が後日発覚して、再度父にお金を貸す事に…

ある時、叔父の家に行った時に、叔父が父の話をしてくれて、父は両親に散々お金の事で迷惑をかけていた事を知り、父は両親に散々お金の事で迷惑をかけてきて、自分が親になったら今度は子供にお金の事で迷惑をかけるんだと思うと、強い憎しみのような感情が生まれてしまいました。

また、僕は家に引きこもり気味で精神的にもあまりよろしくない状況で、叔父から聞いた父の話の件で、父への感情が抑えきれなく暴発してしまう事が懸念されたので、本当はきちんと働く事が出来る状態になってから家を出ようと思っていたのですが、父への感情が抑えきれずに父に手を出してしまう可能性があり、そうなると大変な事になってしまうので、家を出る事に…

家を出た後仕事に就くも、発達障害で人とのコミュニケーションを取るのが苦手なため、人間関係が上手くいかず、あまり長続きせずに退社する事になってしまいました。

退職後も、実家に帰る訳にもいかず、生活をしていくためには働かないといけないので、人とのコミュニケーションが上手く図れず、長続きしないなりにも色々仕事を変えながらも何とか生活をしていました。

その後も人とのコミュニケーションが上手く図れずに仕事を変えながらも働き、30歳になり、将来の事をきちんと見つめ直さないといけないと思い、今後どんな職業に就きたいのかを考えて、その職業に就くために資格の勉強が必要なら勉強をしたいけど、器用ではないので仕事だけで一杯一杯になってしまって、勉強と両立する事が難しいと思い、あまり実家には戻りたくはなかったけれど、将来のために割り切ろうと思い、暫く実家に戻る事にした。

実家に戻り暫くの間休んで、ハローワークで職業訓練校のプログラムの説明会に行っていた矢先に首のヘルニアになってしまい、具合が悪くなってしまい、勉強どころではなくなってしまったため、就職のための取り組みを中断する事に…

首のヘルニアの治療のために病院や治療院などに色々行ったけれど、改善が見られず、仲の良い友達に相談すると、「実家を離れて関東で生活保護を受けたら、首のヘルニアが治ったらすぐに仕事を探せるので良いのでは」というアドバイスを受け、最初は生活保護を受ける事に対してかなり抵抗があったけれど、徐々に貯金を切り崩している状況で、いつ治るのか見通しが立たない状況だったので、友達のアドバイスに従い生活保護を受ける事にしました。

生活保護を受ける事が決まった後に、先程の友達が発達障害持ちで、僕も発達障害の特性に当てはまる部分があるので、精神科で診てもらってはというアドバイスを受け、精神科で診てもらった所、発達障害と診断されました。

発達障害と診断されて、小さい頃から人と上手くコミュニケーションが上手く取れなかった事や、働いても人間関係が原因で仕事が長続きしない要因が発達障害にあったのかと自分の中で繋がって、診断された事でかなり気持ちが楽になりました。

生活保護を受けた当初は首のヘルニアが良くなったら働けると思っていたのですが、一人暮らしで実家から離れた所に住んでいて、近所に気軽に会って話したり出来る友達がいなくて上手く発散が出来なかったり、生活保護の制度の中で窮屈な生活をしている事などでストレスが溜まり、うつ病を患ってしまい、首のヘルニアの症状は緩和されてきたのですが、今度はうつ病の症状で働けない状況になってしまいました…

またうつ病は精神の疾患というだけでなく、脳の疾患でもあり、長期間強いストレスにさらされている状況が続くと、脳が萎縮してしまい、記憶力などにも影響が出てしまいます。

僕はその事を知らず、うつ病を悪化させてしまい、記憶力などにも影響が出てしまい、仕事をするにも最初は色々覚えたりしないといけないので、就業するにあたって、ある程度脳を元に戻してあげないといけない状況にあります。

そのために、リハビリを兼ねて、ウォーキング、筋トレ、瞑想などをしています。

酷い時は座っている事も出来ず、横たわる事しか出来ないような状況でしたが、最近は少しずつ良くなってきています。

ただ体調に波があったり、色々ストレスが溜まる事があると、すぐに体調が後戻りしてしまうので、もう少し安定した所まで引き上げられたら良いなと思っています。

愚痴のようになってしまいますが、実家にある程度のお金があって、首のヘルニアになったとしても、自宅で療養出来るような環境があったなら、無理をして生活保護を受けながら一人暮らしをしなくても良くて、うつ病になっていなかったと思うので、そういう環境がある人と比べてしまって、卑屈になってしまったり、ひねくれてしまったりします…

また、実家に大学に行かせるような経済力があったなら(多分多くの家計が大学に行かせられる経済力があると思います)、発達障害で人と上手くコミュニケーションが図れずに高校を退学してしまったとしても、なんとか大学に行くまで人生をリカバリー出来れば、ここまで苦労しない人生を歩めた可能性が高いので、大学に通えた人と比べて、自分は行きたくても行けなかった事もあって(コンプレックスにもなっている)、大学に通えた人(多くの人)と比べて卑屈になってしまったり、ひねくれてしまったりします…

「親ガチャ」という言葉がありますが、残念ながら親を選ぶ事が出来ず、自分はかなり悪い方のガチャをひいてしまったと思うので、人より苦労する事が多いです…

その他にも、自分の経済的な境遇と比べてしまい、卑屈になってしまったり、ひねくれてしまったりという事が多々あります…

そういった環境が、プロフィールの項目で書いた「ひねくれ者」な性格に繋がっているんだと思います。

「ひねくれ者」な性格に繋がる原因は分かっていたとしても、なかなかそういう自分を変えられずにいます…

もし変えられるとしたら、「あの時はそういった時もあったな」と思い出として振り返られるくらいな所まで自分を押し上げられた時なのかなと自分は思っています。

正直、そこまで押し上げる事は難しいだろうなと思いますが、生きている間にこれ以上苦しい思いはしたくない(自分も好きでひねくれ者のような性格になっているのではないので…)ので、自分を押し上げられるようにしたいと思っています。

また20歳くらいの時から「希死念慮」が強く、最近までその感情を「死ぬのはいつでも出来る。自分が精一杯努力してそれでも幸せになれないと思った時は、その時は迷わず死のう」と自分に言い聞かせて、何とか死ぬのを思いとどまらせて今まで生きてきました。

最近は精一杯頑張ろうとする事で自分に無理を強いる事になり、うつ病の改善にはあまりよろしくないと思い、あまり無理をし過ぎないように気をつけています。

最近になり、ようやく「希死念慮」が少し落ち着いてきたものの、また人と比較してしまって強く思う事があるかもしれなく、その時に上記のような文言で言い聞かせて死ぬのを思いとどまらせる事が出来ないかもしれないので、そうならないように生きていきやすい状況を整える事に重きをおいて日々生活をしています。


長くなってしまいましたが、現在までの事を書かせていただきました。